国鉄改革に際して、公企レポートで語られていた、国鉄改革について当時の資料を元に、blackcatが語ります。

公企業レポートに見る国鉄改革

序章
国鉄改革とはなんだったのか?
日本国有鉄道が、民営化されて20年以上の年月が経過、昨年の民主党政権誕生で、国鉄改革で最期まで残っていたJR不採用事件は一定の解決が図られることとなったが、あまりにも時間がかかりすぎたことは否めない。
と思う反面、底まで追いかける必要のあることだったのかと言う考え方もあるのも事実。
そこで、ここでは当時の公企業レポートと呼ばれる冊子に書かれた記事を参考に当国鉄の状況を追いかけてみたい。
ただし、一部散逸した部分もあるので完全ではないことを了承願いたい。
なお、blogで原稿執筆した上で、こちらに反映したいと思うのでそちらもあわせて参照して欲しい。
blog 「国鉄があった時代」で執筆中

第1章 広域移動(概要)

昭和61年3月15日付 公企業レポートに見る国鉄
国鉄は昭和61年2月28日に国鉄分割民営化を定めた国鉄改革五法案を閣議決定したことで、国鉄改革は既定路線として進むこととなった。

参考

法律第八十七号(昭六一・一二・四) 日本国有鉄道改革法(国鉄改革の基本方針)
旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律(新会社の組織・運営を規定)
新幹線鉄道保有機構法(新幹線の一括保有を認める法律)
法律第九十号(昭六一・一二・四) 日本国有鉄道清算事業団法(債務の引継ぎ及び、旧国鉄職員の再就職)
日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職に関する特別措置法(職員の退職・再就職に関する法律、ただし平成2年4月までの時限立法)
法律第九十二号(昭六一・一二・四)鉄道事業法 (国鉄と民鉄を一元的に捉えるための法律)
法律第九十三号(昭六一・一二・四) 日本国有鉄道改革法等施行法
日本国有鉄道の経営する事業の運営の改善のために昭和61年度に緊急に講ずべき特別措置に関する法律(この法律のみ昭和61年5月30日)
地方税法及び国有資産等所在地市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律

国鉄では、地域間で過員が発生することからその過不足を調整するために広域移動を行うこととしました。
従前、国鉄では本社採用を除き、管理局単位での採用者は管理局内での移動はあっても他部署に移動することは稀でした。
広域移動を含めた余剰人員対策は既定の路線として同年3月4日に各労組に説明。
すでに、国鉄改革に積極的に協力してきた動労・鉄労・全施労は「三労組の雇用の具体的な保証の要求」に応えたものと評価、全面的に賛成し3月14日に国鉄当局と妥結したが、国労は、団体交渉が必要として態度を保留しました。

今回の広域移動の概要は下記の通りです。

今回の広域移動は、国鉄改革により九州・北海道で大量の余剰人員【過員】が発生する見込みであるのに対し本州ではほとんど余剰人員が発生しないことから、北海道から2500人、九州から900人を東京・名古屋・大阪に配置しようとうもので、3月20日から1ヶ月間をめどに広域移動の募集が行われました。
国鉄監理委員会の推定では、北海道で13,000人、九州地区で11,000人の余剰人員【過員】が発生すると言われている。
それに対し、国鉄関連会社などへの再就職を斡旋したとしても北海道1,000人、九州は1,300人と10%程度に過ぎず、地方公共団体などにも採用の交渉をしているが、少なくとも余剰と呼ばれる人たちを救済するには、上記の広域移動を行わなくては、負荷という結論に達した人のことでした。
もともと国鉄職員は先程も記したように、地元密着指向の人がおおいのですが広域配転に応じる人もいると当局は考えたようです。

国鉄本社の見解(まとめ)

国鉄本社が打ち出した広域移動の目的は、国鉄改革で当時の中曽根首相が職員を一人も路頭に惑わせないと言う方針【実際には多くの人が職を失いもしくは将来を悲観して自殺した職員も多く、その後もJRへの採用を求めるなどの多々の労働問題を起こすのですあるが、当時としては十分に余剰人員(過員)による問題は起こり得る、【総数ではあっていても、実際には北海道・九州で大量の過員を抱えたに関わらず、本州三社では大きく欠員が生じたという事実】ことは予見出来ていたのかもしれない。
国鉄の場合郵便局同様、地元採用であればそのまま辞めるまでそこでの勤務ということがほぼ当たり前の時代だっただけに、ふるさとを離れるのは容易ではなかったと想像できる。
実際に、転勤を決意した人もいるが長男のため地元を離れることができないといった理由から、広域移動を思いとどまった人もいると聞いています。
しかし、当局の思惑とは別に組合としても、ここで当局の施策に積極的に協力することで新会社への採用を優先的に受けられるオプションであると捉えていました。
というのは、2月25日国鉄総裁と労使共同宣言参加労組の個別話し合いで、雇用問題の具体的保証を要求したことに対する答えが「広域異動」であり、これはいわば、新会社移行のパスポートととったのです。
 これにより、組合側としては組織を守れると言う思惑はあったようだ。
 当局側としても、優秀な人材が漫然と日毎をしている職員に大して刺激にもなるし場合によっては、玉突き式に非効率な働きをする職員を淘汰できると考える当局側の思惑もありました。
実際に、私の父親は最終は、天鉄局の管理職で辞めたのでいつも何かのおりに、「〇〇のような職員は採用しないように査定した」といったことをよく言っていたものです。
ただし、ここでも国労は、「広域異動」に関しては「団体交渉事項である」としたことから、当局からはさらに追い込みをかけられる形となっていくのだが、大きすぎる組織そして、職能組合でないところに国労の悲劇があったのかもしれない。
動労や全施労は基本的に職能組合のため、彼らの雇用だけを守ることに専念すれば良いが、国労の場合駅務から運転、設備に至るあらゆる部署が加盟しておりいわば、今の民主党政権みたいなものと表現すればわかりやすいと思うが、何一つ結局は決められない形となっていた、最終的には昭和61年10月の修善寺大会で六本木一敏が新委員長に選ばれることで国労の衰退は決定的となっていくわけだがその辺はおいおいお話をしていきたいと思います。

当時の当局側の見解

葛西敬之職員局長【当時・現JR東海会長】の談話を要約しますと
国鉄改革監理員会の見識として、北海道・九州では現行人員に対して北海道で1万3千人、九州では1万1千人が過員(国鉄の表現では余剰人員)が発生するといわれている。
この数字は、当局でも把握している数字でありそれに対して、関連企業などでの転職として確保できたのは、北海道で1千人、九州では一千三百人であり、約一割ほどしか雇用を確保できない状態となっている。
当局としては、職員の雇用確保を最優先に行ってきたがこの差を埋めるのはなかなか容易ではなく、公的部門への転職枠確保を政府に決めてもらいましたが、地域性を埋めることはできず雇用が確保できるのは、東京・大阪・名古屋圏といった大都市に集中されることになる。
現時点で、最終的な(過員)余剰人員は、6万1千人と想定されますが、そのうち北海道と九州で2万4千人ですから余剰人員の約30%が北海道と九州に集中している。
そこで、それを解決させる手法として、北海道・九州の職員による広域異動が検討されました。
ただし、北海道・九州から余剰とされる人員が全員移動するとは考えられず、概ね1万人の異動を見込んでいる。
ただし、宿舎の確保などの問題があるため、61年度退職者を見込んで61年4月の募集は、東京・大阪・名古屋の3地区に限定し、東京では約1,800人、名古屋で約700人、大阪で約900人を想定している。
そして、宿舎の確保が出来次第二陣を検討していくことになると考えている。
そこで、広域移動は就業規則に書かれているのかと言う問題が生じると思うが、実際にはこれと逆のパターン。【大都市から地方へのIターン】で、今までも行われているルールで運用していく。
ですので、新しい制度を作るのではなく、人事の任免行為としての異動になるので問題はない。
もちろん、公労法場の団体交渉として認めれる内容については交渉することもあるがあくまでも現行ルールによる交渉であり、新しく制度を作るわけではない。
また、異動させる職員は異動先に定着してもらうことを前提としたいので、本人の希望に基づく形で選びたいと考えている。
実際に、この募集は強制ではなかったが、組合は新会社に残れるパスポート的な意味合いを組合員にも伝えていたようである。
とういのは、当局側としても、「本人の希望に基づいて手を上げさせて選んでいきたい。しかし、本人の希望のみによるという訳にもいきませんので、その中で出す側、受ける側の双方で勤務成績を評価して、優秀な職員を採っていくという形にしたいと思います。」
という話をしてしていますし、極力本人の以前行っていた仕事をつけるように努力したと思うとも言っています。
すでに共同宣言を結んだ動労・全施労・鉄労は、この募集を賛成しているにも関わらず、国労だけは「配転協定」が結ばれていないことを理由にまず「配転協定」のための団体交渉を行うよう申し入れているわけであるが、当局の見解としてはすでに今回とは逆のパターンで都市部から地方に転勤させている例もあるので、団体交渉の必要はないというのが当局の見解でした。
以上要約終わり。
と言うことで、国鉄当局としても雇用の確保を最大限に考えているがそれでも北海道・九州では過員【余剰人員】が発生し、その処遇はできるだけ雇用を確保すると言っているでのあるが逆に言えばこの時点で北海道や九州では過員が発生することを把握していた傾向がありそれが、人材活用センターの設置に向かう一員になったのかもしれない。

国労の広域異動に関する見解

最初に、国労について簡単に解説したいと思います。
国労は,戦後GHQの解放政策により結成された労働組合で、職員労組を前身とする組合で、駅員から機関士に至るまであらゆる職種の人々が加入しており、機関士・運転士だけの動労などとは異なり寄り合い所帯の雰囲気があり,支持政党は社会党(現在の社民党)であり、国労内部では、右派と左派に分かれるという状態であり概ね、左派が主導権を握っていたものですから、国鉄の分割民営化については原則的に反対、それ以前から行われていた出向にも消極的で、「辞めない」「休まない」「出向しない」という3ない運動を行っていました。
国労は左派が主流派であり、当時の国労秋山 謙祐企画部長(当時の肩書き)によれば、今回の広域移動は、生活の根幹に関わる部分であり、単なる人事異動とは言えない。
これを実施するには、条件など徹底的に労使が論議を尽くしてその中で合意を形成するべきであると主張しており。 葛西職員局長とはまった区別のスタンスをとっています。
よして、その理由として、「いくつかの要求を提示しないと団体交渉ができない状況だから。」と書かれています。  国労の内部事情として、各派の意見をとりまとめるといった作業があるのでしょうが、読み直してみても意味不明瞭な表現です。
 また、当局側の見解に対しても,以下のような理由から納得できる話でないと突っぱねています。
 国鉄の就職は以下に分類され手織り,法的根拠は別として採用に基づくルールは厳然と残されているといっています。
 すなわち、

本社採用・・・・国鉄本社採用(いわば、キャリア組、全国転勤有り)

支社採用・・・・地方支社採用(国鉄末期には管理局に統合,いわば準キャリア組 基本支社内での異動)

地方局採用・・・管理局単位での採用(この採用が最も多く、基本的には採用職場からの移動なし、あっても管内の異動のみ)
とくに一般職の採用の場合は,ごく一部の特殊ケースを除いては、あっても管内異動だけですから、管外へそれも永続的に生活基盤自体を変更するのであるから、これはいわば特殊なケースであり解釈の問題ではない。

という風に、全く異なる見解を持っていました。
また、国労は総評に所属しており、同じ総評に所属する動労との意識統一をかなり気にしています。
「現時点では、統一できている部分とできていない部分がある。」
「動労は広域異動を基本的には認めているが、国労としては認める・認めない以前の問題として、広域異動のための条件を明記する必要がある。」
として、3月10日に総評で会議を開き動労と共闘できる条件を求めて会議を開くとしていたが結果的にはうまくいかなかったのは歴史が示す通りです。
とくに,会議の席で検討したいとしているのが、「異動に際して、不安のないような条件を整えようという考え方であり、その点では動労とは意見が一致している。」
ということであり、雇用を守ると言う点では一致しているのでしょうが、あくまで条件重視の国労、とりあえず組織を防衛したい動労との温度差を感じる話ではあります。
最後に、国労としても一番恐れていることとして、玉突き選択のよる国労組合員の解雇を警戒していると書かれていますが、この心配は結局広域異動よりも、地元に残った組合員を直撃することとなるのですがこの点はこの話から外れてしまいますので割愛させていただきます。

動労の広域異動に関する見解

動労は、昭和25年、機関士の待遇をめぐった意見の相違から、国労を脱退した機関区従業員の職能組合として誕生した機関車労組をその前身としている。
余談ではあるが、機関士労組の結成は当時の当局の運転局がかなり積極的に応援した節もあります。
さて、今回の広域異動についても、動労は、当局が提案したから協力しましょうということではなく。独自に3・4年前から組織内で議論したとされています。
基本的には当局の意向を受け入れるが、いくつかの問題点は今後つめていくとされています。
動労の目的はあくまでも、組合員の雇用確保であり、その延長としての広域異動と考えていると、福原書記長【当時】は答えています。
さて、実際に昭和57年頃はどんな時代かというと、ブルートレインのヤミ手当てなどが新聞で論議され、三塚博運輸大臣【当時】が、自民党内で「国鉄再建小委員会」を設置するなど、国鉄改革が待ったなしの状況におかれていましたし、ローカル線の廃止、貨物列車を中心とした列車の削減などで機関車ともども過剰状態を生み出しつつあったのです。
また、先に記したヤミ手当てなど国鉄憎しのマスコミ批判は、「国鉄民営化やむなし」という世論が形成するには十分でした。
動労は、国労と比べると相対的に組織が小さかったこと、機関士・運転士のみの動力車乗務員のみで構成されていたことなどから、意識統一を図りやすかったこともプラスに働いたと思います。
結果的に、当局が提案した広域異動案に、問題はあるが総論で賛成したことは結果的に動労がその後に改革のおいて職員の処遇及びその後の組合再編においてかなり有利に働いたことは間違いないのでした。
ただ、広域配転で転勤した人たちはやはり、色々な意味で苦労が多かったと聞いています。
特に首都圏などに配置された人々の場合、今までは、ラッシュ時の過密運転を経験したことも無く、運転自体にストレスを感じたとか、おそらくそれ以外にも管理局ごとに作成される運転取り扱い規則になどの違いなどによる戸惑いもあったのではないでしょうか。
ひとまず、そんな悩みを抱えながらも動労は、広域異動を受入れ、その後の改革でイニシアチブをとっていくのですがその辺はまた後ほど。

鉄労の広域異動に関する見解

鉄労の歴史を簡単に振り返ってみますと、昭和32年の国労新潟地方本部が本部の意向を無視したストライキ(新潟闘争)を行った際に、その運動に反対する方針を持つ組合員が離脱した、国鉄職能労連をその母体としています。
昭和32年11月には、国鉄職能労連同様、国労から離脱した地方総連が集まり、「新国鉄労働組合連合【新国労】)を結成、をその後、昭和43年に名称を「新国労」→「鉄労」に名称を変更、基本的には「労使協調路線」を貫き、国労・動労が労使対立していくのに対して穏健派と呼ばれストをしない組合と言うイメージが持たれていました。
さて、そんな鉄労ですが、労使協調路線、民営化推進を当局とともに行うことで、組合の論理として雇用の確保が図れることをを第一義に考えていたようです。
当時の記述を、公企レポートから見てみますと、鉄労志摩書記長は下記のように述べています。
今回の大幅な広域異動は、「余剰人員対策ではあらず」、むしろ今まで行ってきた余剰人員対策から深度化した「転職の問題」と考えていると発言しています。
受け皿の少ない、北海道や九州は現状のままでは今までの手法では余剰人員対策は解決できないわけで、それぞれ公的機関も、民間事業、関連事業を含めて比較的受け皿の大きい本州に移動させることが労働組合として考えると労働条件や雇用条件に機会の均等化となり、今回の措置は当然であると考えていると発言するあたり、労使協調路線を組合活動においてきた組合らしい判断です。
そしてその効果は顕著に現れ、北海道・九州ではかなりの余剰人員を発生させたにも関わらず、鉄労組合員はほぼ100%新会社に移行できたのに対し、北海道では国労組合員の約7割にあたる3400人【不採用者全体は4767人】、九州も同様で国労組合員の約7割にあたる1550人【不採用者全体は2111人】【この数字は、季刊労働法148号(昭和63年・7・25号より引用)
というように、凄まじいものがありました。

全施労の広域異動に関する見解

全施労は、組合としては大きくなく、比較的コンパクトにまとまっていることもあり機動的に動いていると思われます。
全施労の滝口書記長【当時】は、このようなことを述べています、以下引用いたしますと。
61年2月5日に、「労使共同宣言を確認し、それをめぐって意見を交換したい」と言う総裁の要請に基づき、3組合による会談が行われその席上で、共同宣言の意味と重みを、地方の管理者に徹底していないのではないか、以下に中央段階でやってもと、地方でこの重要な意義を呈していない管理者があるとすれば意味がない、・・・引用終了
と言うことで、中央と地方の温度差について提言しています。
また、全施労は、雇用協約・配転協約を結んでいるが分割民営化は既定の路線であり、反対することはナンセンスであることも理解している、ただし、国鉄が民営化されたときに本当に雇用の問題が解決するかといえばそうではなく、北海道・九州、四国などでは十分に余剰(過員)人員を解消できることは難しい状況にありますので、具体的にこれら地方の人々の雇用が守れるのかと言うことに対する答えが、広域配転だったのです。
そこで、全施労としては、共同宣言をして真面目に努力する組合と、そうでない組合とのケジメをつけるべきと注文をつけたところ、広域異動は当局の管理運営時効であり細かい条件については、個別に組合と交渉するといわれましたし、広域異動にも応じるような人は勤務成績もよく、本人は国鉄への残留を期待してる職員が多いはずだというと、総裁から「そうだとすれば、その人達は永久パスポートで、将来とも保証したい」と回答を得ましたので、全施労としては積極的に協力していくことを明らかにしたそうです。
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