ヨンサントオが残したもの

    本日から新完成開業後から、ヨンサントウと言われた白紙ダイヤ改正までを何回かに分けてアップしたいと思います。

    新幹線の開業は、東海道選の輸送事情を大きく変えることとなりました。
    それまでの特急列車はすべて姿を消しましたが、当時は新幹線への移行がどれほどあるか読めなかったこともあり、急行列車に関しては、ほぼ残るとともに東海道線の夜行列車も同様に残されることとなりました。

    当時の時刻表(昭和40年7月の時刻表)をみるとよくわかりますが、電車急行や準急はほとんど残っていることが見ることができると思います。

    また、新幹線は1時間に各1本ずつ、「超特急ひかり」と「特急こだま」と言う陣容で、ひかりは4時間運転、こだまは5時間ということで、今の2時間半から比べると半世紀で新幹線はさらに半分近くまで時間を縮めたことになりますよね。

    ここで当時のダイヤを見てみますと、準急東海(東京〜名古屋・大垣)が夜行も含めて6往復、急行六甲 大阪行、急行いこま 大阪行 急行なにわ 大阪行 急行よど 大阪行きと言う大阪行き電車急行の他に、九州直通急行として朝9:18 急行桜島(西鹿児島行き)この時は臨時扱いですね。10:00には急行霧島 西鹿児島行、12:30には、急行雲仙・西海、ちなみに、西海は、元進駐軍専用列車(講和発効後は特殊列車)から改名されたものです。14:35には、急行高千穂(日豊本線経由)西鹿児島行、夕刻になると寝台特急による共演が始まりさくら 長崎行、特急みずほ 熊本行、あさかぜ 博多行 はやぶさ 西鹿児島行 富士 大分行、そして急行群として、出雲が19:50に浜田に向けて東京を出発すると、那智 紀伊勝浦行 さぬき 宇野行 能登 金沢行(東海道線経由) 安芸 銀河 瀬戸 はりま 明星 金星 月光 第2いこま 大和・伊勢 しんがりは先にも記した準急東海の夜行列車が23:00に東京を立ちそのしんがりを務めるとという今の東京駅からは想像できない程の多くの長距離列車が旅立っていました。

    このように多くの急行列車などが残された背景には、新幹線への利用客の需要が読み切れなかったことにありました。

    昭和39年40年頃と言うのは、まだまだ日本は貧しい時代であり、為替レートが1ドル360円の固定相場でしたから、外国の製品はなんでも高くて外国製品(舶来品)=高級品と言うイメージが常にありました。

    現在の新興国が日本の製品が最高級品と思うのと同じ感覚なんですね。

    ですから、外車=ベンツ=金持ち・・・そんな構図が出来上がっていましたが、それでも時代は高度経済成長を続けている時期であり、水俣病、イタイイタイ病など数々の公害病をまき散らしながらも経済は発展し、個人の可処分所得は徐々に上がっていきました。

    当然今のように高度な通信手段などは発達していませんから郵便と直接本人が行き来して会議をすると言ったことが当たり前に行われている時代でしたから、夜行列車の需要は非常に高いものがありました、ぎりぎりまで本社で仕事をして夜行列車に飛び乗り、次の日は出張先の支社で仕事して夕刻には再び夜行列車に飛び乗って次の日は本社で…みたいな猛烈社員が評価される時代でしたから、そうした時代背景も踏まえてみていったいただきたいと思います。

    次回は、新幹線開業による具体的効果等についてお話をしたいと思います。

    画像は、昭和40年7月の時刻表から
    居並ぶ長距離急行と寝台列車等の群舞をしばしお楽しみください

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