高速道路の開通と鉄道輸送

    昭和30年代、新幹線ができるまでは陸上交通はほぼ鉄道が独占していましたが、確実に道路の整備も進み昭和39年4月には日本初の本格的な高速道路、名神高速道路が小牧〜西宮間が開通しました。
    これが日本における高速道路の始まりであり、国鉄にとっては試練(特に貨物輸送)が始まりといえます。
    昭和41年(1968年)には「国土開発幹線自動車道建設法」抜粋

    (目的)
    第一条  この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる全国的な高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進することを目的とする。

    (定義)
    第二条  この法律で「自動車道」とは、自動車(道路運送車両法 (昭和二十六年法律第百八十五号)第二条第二項 に規定する自動車をいう。)のみの一般交通の用に供することを目的として設けられた道をいう。

    (国土開発幹線自動車道の予定路線)
    第三条  第一条の目的を達成するため高速幹線自動車道として国において建設すべき自動車道(以下「国土開発幹線自動車道」という。)の予定路線は、別表のとおりとする。
    上記法律に基づき、建設が進められ、昭和43年4月には東名高速道路も開通し、東京から大阪まで高速道路でも結ばれることとなり国鉄としても高速バスで参入することになり、本格的な競争時代に入ったと言えましょう。

    それでも国鉄における旅客輸送はほぼ独占状態であり、盆暮れの帰省時には指定券を買うためにもしくは列車に乗るために駅で待つと言う時代であり、「テント村」と言うのが季節の風物詩と言われたものです。
    大阪駅に待合所に使われていた時代でした。

    昭和40年代、高度経済成長期の真っただ中で、経済は右肩上がり昭和45年の日本万国博覧会開催に向けて建設ラッシュということもあり、国民の所得も向上、自家用車を持てる家庭も増えてきました。

    それらと並行して首都高速・阪神高速なども工事が行われますが、予想以上の自動車の普及に法制が追い付か無い状況が続きました。

    特に国民車であった昭和33年から発売が始まったスバル360等から、自家用車は庶民の乗り物として急速に普及していくことに、昭和40年代になると日産サニーやトヨタカローラに代表される小型車も普及し、昭和40年末にはトラックによる貨物輸送シェア(トンキロベース)は12%から26%に伸びており、その分鉄道輸送が減少することになりました。
    旅客輸送にあっては、(人キロベース)で16%から32%に大幅に増加し、国鉄の輸送シェアを少しづつ減らしていくのでした。

    昭和40年代は本当に豊かさを実感できつつあった時代でした。
    昭和30年代はどことなくまだまだ貧しかった日本がどんどん豊かになっていく、それを実感させてくれる時代ではありました。

    私の家では自動車は無かったのですが、自動車の割賦販売は一般化し、中古車流通のシステムが出来上がって街中では確実に車は増えていきました。

    ドアからドアへの自動車の利便性が一般にも浸透したことから、自動車を使って移動する人は増えてきて、路面電車などは時代遅れの産物として廃止促進運動が起こるそんな時代でした。

    「新・三種の神器」(クーラー・カラーテレビ・車(カー))として車が、当時の憧れであったことが伺えます。

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